西金沢の南に「押野」という地名があります。この押野、住所を調べると 金沢市押野野々市市押野 の両方が出てきます。同じ名前の町が、市境をまたいで二つに分かれている。なぜこんなことになっているのでしょうか。

はじまりは明治の町村制

押野村が生まれたのは 1889年(明治22年)4月1日。町村制の施行にともなって、押野・太郎田・八日市・八日市出・八日市新保・森戸・矢木・矢木荒屋・御経塚・野代・押越の11か村が合併してできた村でした。

村域は平坦で、もともとは農業が中心。それが昭和に入ると、西金沢駅の周辺から急速に都市化が進んでいきます。

1956年、金沢市へ

1956年(昭和31年)1月1日、押野村は全域が金沢市に編入されます。これによって西金沢駅も「金沢市の駅」になりました。

ところが、この編入に納得しない地区がありました。

1年3か月後、市境が引き直される

編入後、御経塚・野代・押越・押野の4地区が、金沢市ではなく隣の野々市町への編入を強く希望します。対立は深刻で、生徒の集団転校問題にまで発展しました。

そして 1957年(昭和32年)4月10日、御経塚町・野代町・押越町、そして押野町の一部(約2.06平方キロメートル)が野々市町へ編入されます。押野は、およそ3分の2が野々市町側へ移ることになりました。

現在の入り組んだ市境は、このときに引かれたものです。

いまも残る痕跡

この分割の名残は、いまも生活の中に残っています。たとえば押野の鎮守である高皇産霊神社(野々市市押野1丁目)は、氏子区域が金沢市押野2〜3丁目と野々市市押野1〜7丁目の両方にまたがっています。行政の線は引き直されても、氏子という古い結びつきはそのまま残った、ということでしょう。

住所を見て「あれ、こっちは金沢市なのに隣は野々市市だ」と戸惑ったら、それは70年近く前の出来事の跡だと思ってください。

参考